グランドスラム
そういえば、グランドスラム、という言葉があったな、と、寝る前に思い出した。グランドスラムというのは、確かゴルフやテニスで四大大会の全てを優勝すること、だったはずだ。しかし、私の学生時代の友人の間に限れば、グランドスラムというのは、もっと悲惨な状況について語るための用語だった。端的にいえば、電話、電気、ガス、水道の全ての公共料金を同時に止められてしまう、という状況を指す言葉であったのだ。この「同時に」、というところがミソである。
私の後輩に、下宿生活が長い男がいた。彼はルーズな私よりもさらにルーズで、とにかく振り込み用紙を失くしてしまうのであった。彼からは、
「電話はすぐに止まる。電気も意外とすぐに止まる。ガスは料金が比較的安いので止まりづらい。水道は基本的には止まらない」
そう聞いていた。しかし、止まるときには止まる。事実その目で実例を見たことがある。彼は、ある冬の夜、私の下宿に現れ、
「達成しちゃいましたよ」
と、何とも清々しい目で語った。当然こちらとしては「一体何を?」と聞き返した。それの返事が、
「グランドスラムですよ」
というものであった。なぜそんなに誇らしげな顔ができる、というほど、何かが吹っ切れたような顔をしていた。何か満足そうなところを感じたのは私の思い過ごしではあるまい。
「は?」
「つまり、公共料金が全て止まりました」
「はぁ??」
つまり、最終生命線であるところの、水道が止まったということだ。どうやら半年以上滞納すると、止まるらしい。
「ちょろちょろとは出ていたものが、しっかり出なくなりました」
あはははと笑った彼は、すいませんが、と用件を切り出した。
「先輩、一晩泊めて下さい」
私は、まぁ、それは構わないのだが、と答えた後で、彼にこう尋ねた。
「ところで、君はグランドスラムを達成したということは、実際にはもっとタイトルを奪取してるということではないのかね? 携帯は止まってないのかね?」
「当然止まってます。しかしそれは電話に含めるんです」
はぁ。そういうものなのか。
グランドスラムを達成することができる以上、携帯電話も止まっている。この時点で既に五冠である。そう指摘すると、彼はしかし、水道が止まってこそグランドスラムなのだと言い張った。何を言い張るやら。
彼は別段金を持っていない訳ではないため、翌日には全ての公共料金を支払いに各営業所を行脚し、無事にグランドスラム状態を脱した。それ以来、私や私の友人の間では、グランドスラムといえば、四大公共料金同時滞納を意味する用語となってしまったのである。まことに不名誉なことだ。
さらに、後日談がある。
この後輩は、夏場に帰省しているまさにその最中に、再びグランドスラムを達成してしまったのである。真夏の暑い最中にグランドスラムを達成するということが、一体どのようなことを意味するか。それに関しては読者諸氏に想像を任せよう。
なお、彼が帰省から下宿に戻った後で、冷蔵庫を丸ごとガムテープで縛り、大型ゴミの廃品回収に出すことを余儀なくされたことを付記しておく。