人格刑の少女

mixiよりサルベージ。



今後のんびり書く小説のためのメモ.章立てもシーンもめちゃめちゃの順番です.今後日記に時々出て来るかと思います.
もちろんいつ書き上がるかも不明です.余り気にしないでいて下さいませ.あ,でもこれが全部の始まりみたい.文章荒れてるけど.昔書いたものを発掘したものです.

1


その日はティム・エドワーズにとって、ある意味記念すべき日となった。常日頃から自分の運が悪いということは、何度も反芻するように確認してきたことであるから、今さらそのことで文句をいうつもりは無い。しかし、後になって考えてみれば、過去にずらりと並ぶその運の悪さも,ティム・エドワーズの人生をそんなに大きくは変化させることはなかった訳であるし、むしろ日常に彩りを添えてくれていたのだと、前向きに捉えることも可能だ。しかし、その日から始まる不運な人生の第二章は、ティム・エドワーズにとってその後の人生を大幅に変化させてしまった。その不幸は一人の少女の姿をとってティムの前に現れた。

最初、ティムは真っ白に空間が切り取られたのであろうと考えた。そもそも冬の日射しも暗く沈んだ夕刻に、まるで初夏を思わせるが如くに白く薄いレース地の服を合わせているのだから、その見間違いも少しは正統性を得られそうである。ティムを擁護するならば、彼は職業柄眼を患っていたし、第一手元を照らすランプの光は工房の入り口にまで届いていなかったのだ。

ティム・エドワーズの人格工房は、イーストエンドの個人営業で、普段から少々表通りをお天道さまに堂々と顔向けしつつ歩くには良心の呵責を伴うような品物も扱っているから、まさか少女が店のドアを開けて姿を現わそうとは夢にも思わなかった訳である。
ティムの脳が白く切り取られた空間を少女と認識するまでに、たっぷり2秒はかかった。そして最初に彼が発した言葉は、恐ろしく間抜けな一言であった。

「道をお間違いではないですか?」

その一言は、少女の表情を眉一本動かすこともなく、ただ少々体感される室温を低下させるに留まった。ティムにとって、いやイーストエンドに店を構える人格屋全員に取っても珍奇なこの客分は、ティムの少々濁った目をじっと見つめ、

「責任を取って下さい」

と言った。その一言で工房の室温はさらに冷え込むことになった。


色々と事情を聞いてみたが、いま一つ要領を得なかった。さらに少女の発言を総合して考えるならば、ティムにとっては納得できないことだらけである。出来ることなら少女の首根っこに「返品−不良品につき−」とでも書いた札をくくり付けて送り返したい衝動にかられた程だ。

しかし、少女は自らの足でこのティム・エドワーズ工房を目指し、途中で何度か柄の悪い連中に乱暴を受けそうになりながらも辿り着いたのだと表情を変えずに言った。ティムは半分以上は彼女の服装のせいだろうと思ったが口に出しては言わなかった。彼女はティムの眼鏡の奥の細い眼をじっと見つめながら、しかし感情をほとんど表に出さないように事情を説明した。それがティムにとっては救いだった。ティムは感情を、特に激しい感情を相手にすることが極めて苦手だったからだ。もしもこの少女が感極まってぽろぽろと泣き出したならば、ティムはきっと無言のまま自分の工房から逃げ出したに違いない。

そして一通り語り終わると、少女は一通の書状を取り出した。その書状には読みづらい金釘流筆記体でティム・エドワーズの名がはっきりと記されていた。少女の話を聞き終わり、今まさに「で、僕にどう責任を取れというんだい?」と詰め寄ろうとしたティムはその書状をじっと見つめ、「君はウィリアム・アトキンソン・グールズの知り合いか」と言うと深い深いため息をついた。少女は何も言わず、ただこくりと頷いた。

書状は宛て名と同様の金釘流の極めて読みづらい筆記体で、おおまかな事情が書かれていた。それによると彼女には『人格刑』を施されているとのことであった。そしてそれを解除して欲しいという依頼が、極めて尊大な言い回しで記されていた。

あの親爺いつか刺されるぞと思いながら、ティムは書状を仕事机に放り投げた。少女はまだティムのことをじっと見つめている。仮想人格による何らかの行動制御が行われているのだろう。これで先ほどの要領を得ない会話も納得がいくというものだ。

ティムは少女の方をなるべく見ないようにしながら、もう一度グールズの文面を脳中で繰り返した。文面を最初に読んだ時にも浮かんだ疑問が再び心に浮かんだ。

−−人格刑? なぜ『僕』が人格刑なんてものに関わらねばならないというのだ。

わざわざ当代英国最大の知性の一人であるウィリアム・アトキンソン・グールズともあろう者が、ちょっとした縁があったとはいえ、イーストエンドの一介の技師相手に仕事を依頼しようというのだ。これにははっきりとした理由が無い方が不自然である。彼ならば英国全土から大陸にまで手を伸ばせよう。大西洋を渡ってアメリカにだって優秀な技師は沢山いる。なんといってもアメリカは、発明王トマス・アルバートエジソンを生んだ土地柄なのだ。ティムも技術で他人に劣るとは思ってはいないが、何でわざわざグールズがティムを指定してきたのか、それが頭にひっかかっている。思考が停止する。彼ならばそんな初歩的なミスを冒すはずが無い。つまり、これはグールズによる謎掛けなのだ。

少女はまだティムのことを見つめている。感情というものは瞳に現れるのだという。ティムは少女の目をちらりと見た。少女は極端に瞬きが少ないように見えた。瞳孔は単純に黒く、少女の灰色の虹彩からも何ら感情を読み取ることができなかった。ティムにとってはそれが自分自身のスキル不足によるものなのか、それとも少女自身が何ら感情を表に出さないようにしているのか判断がつかなかった。

ティムは再びため息をつくと、「僕が力になれるかはなはだ疑問だけど、少なくとも僕に出来る範囲で協力するよ」と力なく言った。少女は無言で頷いたが、それはティムにとっては「責任を取る」ことを促しているとしか思えなかった。しかし、ティムは「責任」という言葉は自分の頭から除外することに決定した。もちろん女王陛下や国家に対する忠誠心は失ってはいないが、ティムにとって自分が果たすべき責任とは、客に対して悪性の人格プログラムを植え付けないようにする、というただ一点だけだったはずなのだ。
ティムはさらに視線を空中に走らせた後、少女の頭のちょっと上あたりに向け、

「とりあえずもう仕事終わりにしようと思ってるんだけど」

と切り出した。

「君はどこか泊まる場所はあるの?」

確かに工房の中は人が泊まれるような場所ではなかった。部屋の一角はいくつものクランクが付いた仮想人格導入用の機械で占められている。ティムが向かっていた木製の巨大な作業机には、乱雑に積み重ねられた仮想人格プログラムカルテと先の尖った専門工具が散らばっており、しかもその内容は少なくとも少女と不似合いなことおびただしいものばかりだ。
ちゃんと免許を持った技師たちはテムズの川向こうの新興地域に店を構え、政府謹製のパラフィン紙で覆われたプログラムカルテを並べている。それに比べたらティムの境遇はみじめなものだ。中古のカルテに中古の機械。しかも扱っているカルテの中には数年前に取り扱いを禁じられた違法のものすらあるのだ。
少女はじっとティムのことを見つめながら、

「まだ決めてないの。ここらへんには疎くて」

と言った。そりゃそうだろうとティムは呆れた。こんな少女が詳しくなる程大手を振ってうろつけるような街なら、1888年にあんな事件は起きなかっただろう。街娼が10フィートおきに並ぶこの街を何だと思ってるのだ。

人格刑とは1870年代に国会で議論されその後凍結されたままになっている刑罰の俗称である。仮想人格を利用することによって、社会に適応できない犯罪者(及び犯罪予備群)の根本的な人格の治療を行い、不適切な行動の発生を抑制することを目的とするというが、何のことはない、単に人間の行動パターンをいいように作りかえましょうという実験だ。様々な議論が巻き起こり、結局うやむやになったままである。公式に刑罰として施行された事実は無いとされている。

「まぁ、表向きはね」

ティムは本棚に分厚い本を戻しながら少女に言った。

「実際にはあるレベル以上の仮想人格技師ならば、人格刑を実施することは出来てしまう。まぁ、1885年以降の免許制度で……」

少女があくびをした。

「まぁ、つまり今免許を持っている技師がそれをやったら、資格剥奪の上追放。誰がその仮想人格を導入したかは他の技師によって読み取れるようになっているからね。明日はとりあえず君に施された人格導入痕を読み取ることにするよ」

ティムはそう言うと、

「じゃ、僕はソファで寝るから、君はベッドで寝て」

そしてティムは少女に背を向けてランプの火を消した。ティムはすぐに寝息を立てはじめたが、残念ながら夢には知り合いのパブの親爺が出てきて何度も何度も少女とティムの関係を問いつめた。赤ら顔で腹が丸く出たその親爺は真っ赤な鼻をティムにくっつくほどに近付けて大きな声で問うのだった。その度に寝苦しさを感じ、ティムは寝返りを打った。彼の人生でこれほど寝返りを打った夜は初めてだった。

みじめであるというのは結構ポジティブな感情なのかもしれないな、とティム・エドワーズは考えていた。何せポジティブな行動を伴う可能性が高いからだ。まぁ、鬱に陥って動けなくなるという諸刃の剣でもある訳なのだが。

機械の駆動する音が建物全体を揺らしていた。ティムの工房は2階にあり、そこに辿り着くための階段は17段。3部屋から成りそのほとんどを仕事のための道具や商品で埋め尽くしている。3階が自室。両脇の建物の方が少しばかり背が高いので、ほとんど陽は注さない。わずかな西日が唯一の恵みとなっている。勿論ここは倫敦で、気まぐれな天候がその些細な恵みすらも奪ってしまうことはしばしばである。
果物を主体とした朝食の後に、ティムは少女に

「じゃ、始めようか」

とだけ声をかけた。地階の動力室、一階の機械室を覗き、問題が無いかチェック。ティムにとって自分が果たすべき責任とは、客に対して悪性の人格プログラムを植え付けないようにする、というただ一点なのだから。
何度も人格導入を受けたベテランであるかのあるように、少女はまったく自然に導入用装置の寝椅子に腰をかけた。人格導入のための装置は磨きあげられているが古いもので、椅子のスプリングが尻で数えられそうな具合だ。ティムがこの装置を手に入れたのはもう10年以上前の話だし、実際のところ、もっと以前から使われ続けているのだからくたびれもする。装置の整備をしようにも、新品で手に入るような部品はもはや市場には残っていないので、いきおい解体屋を巡ってはまだ使えそうな中古部品を漁るといった具合だ。幸運なことにティムはあと10年はこの機械を使えるだろう。歯車樹の中でも最も重要ないくつかの部品を新品で入手済みだからだ。
少女は回転する図形盤をじっと見つめ、仮想人格導入に慣れ切った多重人格娼婦のようにあっさり導眠された。今回はしかし人格の導入ではない。現在彼女に挿入されているであろう仮想人格の記録が目的である。もしもID付き人格であれば機械的に取り除くこともできるだろうし、少なくとも挿入した人物の協会員番号くらいは引き出せるはずだ。ティムは真新しいパンチカードの封を切った。導眠された少女は不安定な生理心理状態に置かれている。この状態で様々な外的刺激を与え、それに対する反応を記録する。1000枚近くのカードに細かい孔が穿たれていく。作業は半日がかりだ。解析はさらに時間がかかるだろう。重要なのは記録者の協会員番号。そして人格ID。
機械の振動が机の上の工具をかたかたと揺らしていた。機械の端から流れ出るパンチカードは手回しオルガンの楽譜によく似ている。折り畳まれており一冊の本のようだ。これは導入順序が変更されないようにと規格された仮想人格専用のフォーマット。見れば壁に作り付けてある巨大な本棚は同じ規格のパンチカードが整然と並んでいる。そのうちの大半は手垢が付いた古いもので、たぶんティム・エドワーズがこの部屋にやって来るよりもはるか以前からこの部屋を見下ろしてきたのだろう。
ティムは流れてくる打ち出しを手に取り、初めの数ページを開いてみると、眉間を曇らせた。
「責任だって? どうやって取るっていうんだ」

そこにはおびただしい枚数の真っ白い打ち出しがただ続いているだけだった。


2


「服装を見れば」

かつてグールズが昔ティムに語ったことがある.

「その人間の九割が分かる」

ティムに関してはそのほぼ全てを把握したと言わんばかりの口調で,グールズはティムを見上げながらそう言った.正真正銘の初対面,マルリボンに立つ導引機会協会の立派な円柱に背を預けるティムの正面に立ち,グールズは表情一つ変えずに,

「君は仮想人格免許を更新し忘れた愚か者だ。違うかね?」

そう問うてみせたのだ.問われたティムは唖然としたままこの無礼極まる老人を見下ろしていた.グールズはティムの返事も待たず,ステッキで石畳をカツカツと叩き,

「愚か者には愚か者のための仕事がある.免許なら私が何とかしといてやるよ」

そう言い,自分の名も告げず導引機会協会に姿を消した.ティムは一人残された.

次に老人が建物から出て来たのはもう深夜と言ってもいい頃合いで,さすがの不夜城導引機会協会の明かりも一つ,また一つ消える頃だった.マリルボンには迎えの二輪馬車が数台待っていた.

ティムは先ほどと同じ格好のまま,柱に背を預け,御者の方を眺めていた.どうということはない.人生の長い時間のうち,ほんの数日大理石の柱を暖めるためだけに使ったって,そう無駄って訳でもないさ.
眠そうな顔をした御者が噛みタバコを道ばたに吐き捨てた.

「ほう」

声がした.老人はティムを見て嬉しそうな感嘆を上げた.

「ティム・エドワーズ.君の免許を申請しておいたのは無駄にならなかったようだな」

この老人は誰だ.
ティムは,

「はぁ」

とだけ答えた.老人はポケットからチェーンのついた鍵をティムに差し出し,やっと自分の名前を告げた.

「儂はジェームズ・アトキンソン・グールズ.聞いたことは無いかね」

−−ああ,このじいさんがグールズか.

ジェームズ・アトキンソン・グールズ.通り名を「倫敦最大の知性」.それが本当かどうかなんて誰にも分かるまい.ただ,人はそう言う.だが,グールズはそれが嫌で余り世間と関わらないようにしている.正直彼の住む部屋はちょっと特殊であるし,彼自身もちょっと特殊な人間だから,訪ねてくる人はいてもなかなか部屋の中にまで入ってくることはできない訳だ.
一言で言うならば、グールズの部屋は書籍の渦である.書籍で出来た壁,書籍で出来た床,書籍で出来た寝台,とにかく圧倒的な量こそがその特徴である.しかし,グールズによると,書籍を量持つというのは恥ずかしいことなのだという.

「本当に優秀な知性を持っている者ならば」

かつてグールズのその言葉は,多くの知的労働に従事する人々に衝撃を与えたという.

「今読んでいる一冊の本と、次に読む一冊の本以外持たずとも済むはずだ」

グールズの主張に従えば,読んだ本の中身を丸覚えし,完全に再現できるのであれば,その書籍はもはや用済みであるということだろう.そんなことは普通の人間に出来るはずがない.発言後そう指摘されたグールズは,

「勿論儂にも出来ない.だから儂はあなた方と同じ程度の知性に過ぎない」

と当然のように答え,

「儂は皆さんと同じように、どこに何が書かれているかを全部覚えているだけさ」

と続けたという.この話は,そもそもグールズのレベルが一般人と大きなギャップがあるということを示すための作り話とも言われている.しかし実際にグールズに会ったほとんど全員が,この鶏がらのように痩せた老人が,巨大な知性の持ち主であることは疑う余地も無いと断言する.ただその全員のうち大部分がこの老人を変人であるとも言い切っている.

      • -

まずグールズの部屋は4階建ての屋根裏部屋にある.かつては屋根裏部屋にまで階段が伸びており,自由に行き来することが出来た.しかし現在この部屋には外に出るための扉が無い.いや,正確に言うならば,扉も階段も既に本によって埋め尽くされ,出口に至ることが不可能なのだ.
鍾乳洞で床から伸びる石柱を石筍と呼ぶ.天井から滴る水を受けて石筍は長い長い年月をかけて育ち,ついには天井にまで至るという.同様にグールズの部屋では本が柱をなし,天井にまで至っている.本による柱は常に成長中で,壁を埋め尽くし,部屋の四方を分厚い本の壁と化している.つまりこの部屋に陽は注さない.ただし四六時中ガス灯が灯されており,手元は十分に明るい.老人はこの部屋で寝起きをしている.卓越した自己制御能力により,彼は毎朝きちんとアイロンのかかった白シャツと,赤いベストを身にまとう.この四十年変わらぬスタイルだ.同じスタイルを貫き通す,それもまた英国気質というものだろう.

        • -

書籍の塔でたった一人で暮らす老人,それがジェームズ・アトキンソン・グールズなのだ.いやたった一人というのは誤謬がある.彼の仕事は孤独なものだが,彼の生活は多くの使用人によって支えられているのだ.
グールズは二階以上を全て書籍で埋め尽くしているが,地上階,そして地下には使用人のために一切書籍を持ち込んでいない.その二つのフロアを仕切っているのはカマキリのように細く長身の老婆である.老婆の名はミセス・マリア・ハドソンという.このハドソン婦人によってぎりぎりでグールズが人間らしい生活を営むことが出来ているのだといえるかもしれない.実際彼が地上階,地下室に書籍を持ち込まないのは,この婦人に敬意を表してのことである.



3


「人格刑を生み出したのは誰だ?」

ヘンリー・ジキルは,そう一人呟いた.鏡の中に見える己の姿.青白い顔,気弱そうな瞳,ざらついて生気の無い肌.

−−あぁ,それは自分だったのかもしれない.少なくとも中心に近い所で動いていたのは確かだ.気づいていたいなかったに関わらず,世の中で最も人格刑が必要なのは自分自身なのだから.

もう私は知ってしまっている.気づいてしまっている.いつか感づいてしまったのは,あの裏庭に通じるドアに鍵がかかっていなかったからだ.

私は私自身を隠さねばならない.私は必要以上に私自身を恐れているのかもしれない.だが,私は彼を隠さねばならない.いや,ハイドは私自身ではないか!

気のせいだとやり過ごそうとした.気づかない振りもした.疑念を押さえつけようともした.酒にも溺れた.そして薬にまで頼った−−全ては自分自身を消すために,自分の中のもう一人の自分を檻に閉じ込めるために−−.

もう,残る手段は,あれしかない.

そうだ,技師が必要だ.腕の立つ者でなければならない.信用も無ければならない.私が私ながらに私で無くなるための儀式を完成させるために.

いつだったかどこかで読んだ.ポーのノンフィクションだったろうか,人々を殺して回った犯人が大猿だったという話.先日のカフェでの噂では,オーギュスト・デュパンはまだ存命だという.

「飼いならす−−」

鏡の中の暗い瞳の男が小声で言った.自分自身の一部を切り取り,生かしたままで檻に閉じ込め,飼いならす.自分自身の中の大猿を.

−−ティム・エドワーズといったか

ヘンリー・ジキルは,細身の服に身を包んだ,長身の青年の姿を思い描いていた.


 『人格刑の少女』の因果律がようやっと決まって来た気配.
 仮想人格を用いた人格刑に,ようやっと「暗号化」という話が絡んで来た.RSA暗号そのものなのだけどね.なのでちょっとRSA暗号の仕組みを勉強中.素数を掛け合わせた値を素因数分解するのは困難であるという部分と,少女と,ティムの役割がやっと明らかになってきた気がするよ.モチーフが決まっていても,それを書けるようになるまでには書き手の成長が必要というのは本当なのかもね.


ーー

この記憶は……あの時の皆殺しの記憶.

1895年冬.ヴァン・ヘルシング博士との共同戦線.
肉が焼ける匂い.吐き気がする.この匂いは人間が焼ける匂いだ.湖に張った氷の上で,人が積み重なって焼けている.

伯爵−−

100年前に大陸で見た時は老人だった.今はどう見ても年齢を遡っている.

私とは違う.
私は人間だ.
私は,まだ人間なのだ.たとえ200年生きようが,300年生きようが,私は人間なのだ.
私は何でも過去にしてしまえる.そして思い出すこともない.
いつどこで生まれたかも忘れてしまった.全てのことはおぼろになってしまっている.昨日のことも,50年前のことも,もう余り変わらない.

夢を見るなんて,もう無いと思っていた.
感情も,平坦になってしまっている.
長く生きるというのは,次第に植物のようになっていくということなのかもしれない.植物といっても,花や草ではない.樹,永い永い時間をかけて,大きく育った樹.
樹のような淡々とした感情.

ああ,これは単なる私の憧れなのかもしれない.何十年か前にも同じとこを考えたかもしれない.
人なんて変わらないものだ.

「教えてやろう若造.……吸血鬼を狩ることなら,倫敦広しといえども彼女ほどの適役はいない.どんな吸血鬼でさえも彼女の前では無力にならざるを得ないし,ましてや彼女の一番の好物は『吸血鬼それ自身の血』なのだから」

あの時のグールズの言葉がよみがえる。