ネットがなかったころ

ネットがなかったころ、今よりももっと沢山の本を読んでいた。読むだけではなく、テーブルトークロールプレイングゲームという遊びに熱中していて、沢山の資料を読み、それをゲームに生かすということをしていた。本は好きだったが、中でも物語を読むことが好きだった。今でもよくできたストーリーは大好きだ。特に大風呂敷を広げたものが、見事に畳まれ、最後がハッピーエンドで終わるのならいうことはない。いつか自分もそういう物語を書くつもりだった。まだその夢は捨ててはいない。自分が作った世界で色々なことを夢見るのは、たぶん今後もずっと続けていくのだろう。

好きだったゲームは、中断して5年くらい経ってしまった。今ゲームをしようとしても、カンも鈍っているだろうし、きっと集中力も続かないだろう。一緒に遊んでいた友人も、散り散りになってしまった。「さあ、集まってゲームをしよう」といって呼びかけて、何人が集まるかはわからない。数人は集まるだろう。でもその集まりは続かないだろうなとも思っている。残念なことだ。

ネットがなかったとき、どのように時間を使っていたのかを思い出そうと、少しの間頭を巡らせてみた。大学生の頃まで、家にMacはなかった。草の根BBSNIFTYに繋げるのは、それから後のことだ。

キーボードを打つことがなかったから、あらゆる文章を書くのは手書きだった。ボールペンでノートにちまちまと書き込んでいたのを思い出す(そういえば、高校生の頃から、鉛筆やシャープペンシルを使う割合が減ったのだった)。そして、ポータブルなCDプレイヤーも持っていなかったし、MDなんて形もなかったから、カセットテープにFMラジオをエアチェックしたものを入れて、ウォークマンで聞いていた。テープは300本くらいあったような気がする。この間見たら、黴びていたので、捨ててしまった。もったいない。

学校の勉強は嫌いだった。だからあまり勉強しなかった。でも学校は好きだった。趣味の同じ友達がいたからだ。オタクといわれるような奴らが集まって、放課後にはサイコロを振ったり、トランプを広げたりして遊んでいた。周りから見たら、賭け事をしていたようにも見えたかもしれない。でも楽しかった。その場に映像が出てくる訳でもないのに、想像を共有できた。それがとても楽しかったのだろう。何かに取り憑かれたように遊んでいた。

バイトもしなかった。通学に片道2時間弱かかっていたから、そんなことをする余裕はなかった。通学2時間の間は、寝ているか本を読むか、音楽を聴くという日々。月に20冊ほどの文庫本と、数冊の雑誌を読み、好きな音楽を聴いた。だが映画は観なかった。映画館に行くのは文庫本を買うより高かったからだ。

朝は6時前に起きて、学校に行き、放課後少し遊んでから帰宅するのは6時過ぎだったか。それから夕飯を食べて、7時のニュースを見て、8時頃から宿題やら何やらやって、9時半か10時頃に風呂に入ると、もう11時前だ。それから趣味の本やら雑誌を読んで0時には寝ていた。この生活をすると、今より生産性が上がるのは確実だ。今後、意識的にネット引きこもりをするべき時もあるに違いない。楽しいことはネットにだけある訳でないのだから。

ただ、ネットは本当に世界を広げてくれた。マイナーな楽しみも共有できると知ったし、様々な価値観があることもよくわかるようになった。何かを書いてそれを誰かの目に触れるようにするための敷居は、とても低くなった。しかもキーボードを打てば、奇麗な文字が出てくる。これはとてもうれしい。

ただ、きちんとしたものを作るのには一定の集中する時間が必要で、そのためにどうやって時間を作るべきか、というのは一つの課題になっている。

やはり、ネットがなかったころのように振る舞ってみるのも、一つの選択肢として考えるべきなのだろう。